グッバイ、ガールフレンド[2010]踊ってばかりの国 (踊ってばかりの国 全アルバムレビュー②)

 

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踊ってばかりの国のアルバムについて。『おやすみなさい。歌唄い』に続く2回目。ぜひ前回のも読んで欲しい。

 

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2ndミニでEPアルバム、『グッバイ、ガールフレンド』。アルバム名からは失恋ソングだと思い、手に取ったり再生ボタンを押した人は多かったかもしれない。ただ実のところこのアルバムに典型的で誰にでも分かるような失恋ソングは含まれていない。下津が仕掛けたちょっとした挑発的なトラップのようにさえ思える。

このアルバムはちょうど踊ってばかりの国のメンバーたちが神戸から東京の吉祥寺あたりに移ってきたばかりの頃。そのため前作よりもこちらの方がデビュー作に近い形となっている。というのはこのアルバムで音楽業界で一旦注目を受けたと思われる。

音楽誌snoozer(2010年『レディガガに勝てない日本のロック』特集)で掲載されたこのアルバムは田中宗一郎など名の知れた面々からの評論を受けている。いくつかの引用してみる。

 

前作と同様に忌野清志郎フィッシュマンズを想起するのは彼らのファンからしたら全く不自然なことではないと思う。音だけでなく歌詞でもそういった表現が見られるが後述する。この評論ではどちらかというと類似性ゆえの負の側面のことを述べ、期待を込めて上から助言するという形で締めくくる。(略)余計なお世話だろうけれど、清志郎佐藤伸治の亡霊からはさっさと離れちまえ!

野田努 


下津はこれを読んで不愉快になったに違いない。破いて捨てたかもしれない。彼はのちのインタビューでこのアルバムを作った時は忌野清志郎フィッシュマンズも知らなかったと言い張ったのだ。だからあんな音楽評論はデタラメだと。音楽評論家も腰を抜かすような言い返しだ。もちろん無理はある。

 

ロックもファンクもレゲエもありつつ、すべてに共通するのは透き通ったサイケデリア。ドリーミーなサウンドエスケープの中で、物語の主人公は何度も死んだり、生き返ったり。(中略)世界中を小馬鹿にしながら、でも、朝にベイビーがいなくなっただけで泣き崩れそうなガキの音楽です。タチ悪そうでいいね。 

田中宗一郎


評論として踊ってばかりの国を貫通させ瞬時にボロボロにしてしまうほどの鋭さがあるが故に、これも書かれた側からするとムカついて仕方ないだろう。

またここでは引用していないが、踊ってばかりの国のみならずガールズや毛皮のマリーズなどのリスナーを放蕩息子のための音楽を奏でる人達と呼んでいる。ある時期までの踊ってばかりの国のメインリスナーたちを特徴づける分かりやすい表現だと思う。

以上のように2つ引用してみたが、アルバム全体を鳥瞰する上で十分な評論だったと思う。一つ付け加えるとすれば前作と比べてみるとある種の”ハイさ”がアルバム全体に漂っており、内省的な雰囲気が少なくなっている。ここでのハイさというのは若さとか熱気とかと近い。

これらの全体像を踏まえつつ1曲ごとの紹介・レビューに移ろう。


1.ハロー

イントロのドラムが印象的なこの曲。そこからはあの下津の何かを吐き出すような歌い方。
「気持ち良くなれるなら僕はゴミでも食えるよ 汚いゴミグズもどんな臭い燃えカスも」
上品さや世間のウケの良さなんか気にせずアンダーグラウンドさを貫く。「気持ち良くなる」は快楽全般というより自らの奏でる音楽が気持ちよく響くことを指しているだろう。サイケに何よりも重きを置く姿勢はこの頃からあった。
「血に位はない 誰も汚れちゃいない」
尼崎の工場地帯で育ったという下津の階級闘争的なパンチライン
「ハロー」と繰り返す、若々しさ(とその勢い)が曲全体に響き渡るようなある種のノリ。それこそがこの曲を印象づける。アルバムの表題曲的位置づけだ。


2.バケツの中でも

「バケツ」とは一作品前の「毛が生えて騒いでる」という最後の曲における「ゴミ箱」(=恵まれない環境)に近いものであろう。
そんな環境でも”あなた”そばにいて歌っていたい。
「“きみ”が死んでしまってもロックンロールは死なない」「僕は”きみ”の真似をしてるだけ」「おい死んだなら席を譲れよ」と歌う。
さて”あなた”、”きみ”が誰を指すのか。「お気に入りのハイカット」「ロックンロール」というワードから連想されるのは忌野清志郎だ。ちょうどこの曲のリリース1年前の2009年に亡くなっている。
「あなたは終わってなんかないけど、あの娘を踊らせたい。」とあるように忌野清志郎の貫いたロックの影響は死んじゃいないが、”あの娘”=”今の若い男や女”には届いていない。それを下津は自分の手で”踊らせよう”=“音楽を届ける”とする歌詞だ。
「あなたを見た時ミドリだった」というのは初めて忌野清志郎を目にした時は小さかったまたは未熟だったということか。ただ他の箇所でもミドリは使われており意味は判然としない。


3.よだれの唄

曲調としてはハイテンポなレゲエ調にサイケなロックを重ねたフィッシュマンズに近い形をとる。ギターは蛇のような軽快さで曲を徘徊する。下津の声は相変わらず粘りっ気がある。2nd『世界が見たい』にアレンジver.があるが聞き比べてみるのも面白い。
下津の書く歌詞には少なくないことだが、この曲の歌詞は全体に散逸感があり、一方向にまとめて書くことは難しい。
“君”が誰を指すのか、なんとも言えない。恋人とも父ともロックスターともとれそうだ。他者Xとする他ない。
「死んでね 笑われると殺しそうだ」
「笑われてる」ことを気にする過剰な自意識。”放蕩息子たち”のための曲であるのは間違いない。
“よだれ”といえば赤子だ。赤子とはつまり未熟者。未熟者のことを書いた唄。(ある種の未熟者としての放蕩息子。)やや強引だと思われるかもしれないが、大枠は外れない見方であると考える。


4.友人の唄

アルバム内で唯一のアコギ弾き語り曲。曲調はゆったりとしており、歌詞も内省的だ。友人である”あなた”への想いが綴られる。前回に引き続きここでも緑の汽車やラジオ、家族のことが登場する。何よりもこの曲で目を引くのはやはりフィッシュマンズの『KING MASTER GEORGE』収録の「頼りない天使」からの引用だ。

なんて不思議な話だろう
こんな世界のまん中で
僕が頼りだなんてね
「頼りない天使」
この曲の中では「本当に不思議だね 僕が頼りだなんて」とそのままではないが引用となっている。
余談だが最後の甲高く引きつるような発声に似たことをTempalayの小原綾斗も「EDEN」とかの曲でやっている。こればっかりは偶然だと思うが個人的にはすごく似ていると思うので聞いてみて欲しい。 


5.あんたは、変わらない

前曲とはガラッと変わって”あんた”=人類に刃を向ける。「人類は同じ過ちを繰り返す」と歌う。正直言ってどこかで聞いたことあるフレーズでサブカルバンドあるあるのような感じは拭えない。ただ単に刃を向けたり嘲笑して終わりというよりは諸行無常的な諦観を露わにさせて締めくくるというのが下津らしい特徴だ。このことはのちのアルバムでより顕著となる。


6.ムカデは死んでも毒を吐く

「本当の血潮、痛みを見せてやる」と歌い、自分をムカデに例えて、「くたばったとしてもお前らに毒を吐いてやる」と歌う。またしてもギラギラとしたナイフを振り回すような攻撃的で挑発的な曲だ。この歌詞と下津の風貌からだと単なるヤンキーだとゲンナリする人もいるかもしれないが、それは誤解であるだろう。
「土壇場にかけたその言葉が一番強いのを知ってた」
「いつもそれを大人は認めない だから僕は人とうまく話せない」
文章としては崩れているが、言わんとすることは伝わる。そこに立つ青年は決して無敵のヤンキーではない。「ムカデは死んでも毒を吐く」と言い聞かせることで自らを奮い立たせる唄歌いだ。さらに<大人>と<ぼく>の対立という構図に甲本ヒロトを想起する人も少なくないだろう。ここには彼の影を見ることもできる。下津は決して<大人>の立場に与することなく<ぼく>やBoyであり続ける。それは成熟を拒むキッズやガキとどう異なるのか。この問いはこれ以降のアルバムでの一つの重要なテーマになりそうだ。


7.テカテカ 

この曲は本来アルバムに収録されていたがなんらかの事情によりサブスク解禁のタイミングでApple MusicやSpotifyでは無かったことにされている幻の曲。ちなみにAmazon Musicでは聞くことができる。ほとんどの人が聞く機会を持たないと思うので今回は触れないことにする。

 



次回は1st full『SEBULBA』だ。『SEBULBA』も実はAmazon Musicくらいでしか聞けない。とても惜しい。

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