グッバイ、ガールフレンド[2010]踊ってばかりの国 (踊ってばかりの国 全アルバムレビュー②)

 

f:id:raiden2357:20221115235805j:image

踊ってばかりの国のアルバムについて。『おやすみなさい。歌唄い』に続く2回目。ぜひ前回のも読んで欲しい。

 

f:id:raiden2357:20221115235844j:image

 

2ndミニでEPアルバム、『グッバイ、ガールフレンド』。アルバム名からは失恋ソングだと思い、手に取ったり再生ボタンを押した人は多かったかもしれない。ただ実のところこのアルバムに典型的で誰にでも分かるような失恋ソングは含まれていない。下津が仕掛けたちょっとした挑発的なトラップのようにさえ思える。

このアルバムはちょうど踊ってばかりの国のメンバーたちが神戸から東京の吉祥寺あたりに移ってきたばかりの頃。そのため前作よりもこちらの方がデビュー作に近い形となっている。というのはこのアルバムで音楽業界で一旦注目を受けたと思われる。

音楽誌snoozer(2010年『レディガガに勝てない日本のロック』特集)で掲載されたこのアルバムは田中宗一郎など名の知れた面々からの評論を受けている。いくつかの引用してみる。

 

前作と同様に忌野清志郎フィッシュマンズを想起するのは彼らのファンからしたら全く不自然なことではないと思う。音だけでなく歌詞でもそういった表現が見られるが後述する。この評論ではどちらかというと類似性ゆえの負の側面のことを述べ、期待を込めて上から助言するという形で締めくくる。(略)余計なお世話だろうけれど、清志郎佐藤伸治の亡霊からはさっさと離れちまえ!

野田努 


下津はこれを読んで不愉快になったに違いない。破いて捨てたかもしれない。彼はのちのインタビューでこのアルバムを作った時は忌野清志郎フィッシュマンズも知らなかったと言い張ったのだ。だからあんな音楽評論はデタラメだと。音楽評論家も腰を抜かすような言い返しだ。もちろん無理はある。

 

ロックもファンクもレゲエもありつつ、すべてに共通するのは透き通ったサイケデリア。ドリーミーなサウンドエスケープの中で、物語の主人公は何度も死んだり、生き返ったり。(中略)世界中を小馬鹿にしながら、でも、朝にベイビーがいなくなっただけで泣き崩れそうなガキの音楽です。タチ悪そうでいいね。 

田中宗一郎


評論として踊ってばかりの国を貫通させ瞬時にボロボロにしてしまうほどの鋭さがあるが故に、これも書かれた側からするとムカついて仕方ないだろう。

またここでは引用していないが、踊ってばかりの国のみならずガールズや毛皮のマリーズなどのリスナーを放蕩息子のための音楽を奏でる人達と呼んでいる。ある時期までの踊ってばかりの国のメインリスナーたちを特徴づける分かりやすい表現だと思う。

以上のように2つ引用してみたが、アルバム全体を鳥瞰する上で十分な評論だったと思う。一つ付け加えるとすれば前作と比べてみるとある種の”ハイさ”がアルバム全体に漂っており、内省的な雰囲気が少なくなっている。ここでのハイさというのは若さとか熱気とかと近い。

これらの全体像を踏まえつつ1曲ごとの紹介・レビューに移ろう。


1.ハロー

イントロのドラムが印象的なこの曲。そこからはあの下津の何かを吐き出すような歌い方。
「気持ち良くなれるなら僕はゴミでも食えるよ 汚いゴミグズもどんな臭い燃えカスも」
上品さや世間のウケの良さなんか気にせずアンダーグラウンドさを貫く。「気持ち良くなる」は快楽全般というより自らの奏でる音楽が気持ちよく響くことを指しているだろう。サイケに何よりも重きを置く姿勢はこの頃からあった。
「血に位はない 誰も汚れちゃいない」
尼崎の工場地帯で育ったという下津の階級闘争的なパンチライン
「ハロー」と繰り返す、若々しさ(とその勢い)が曲全体に響き渡るようなある種のノリ。それこそがこの曲を印象づける。アルバムの表題曲的位置づけだ。


2.バケツの中でも

「バケツ」とは一作品前の「毛が生えて騒いでる」という最後の曲における「ゴミ箱」(=恵まれない環境)に近いものであろう。
そんな環境でも”あなた”そばにいて歌っていたい。
「“きみ”が死んでしまってもロックンロールは死なない」「僕は”きみ”の真似をしてるだけ」「おい死んだなら席を譲れよ」と歌う。
さて”あなた”、”きみ”が誰を指すのか。「お気に入りのハイカット」「ロックンロール」というワードから連想されるのは忌野清志郎だ。ちょうどこの曲のリリース1年前の2009年に亡くなっている。
「あなたは終わってなんかないけど、あの娘を踊らせたい。」とあるように忌野清志郎の貫いたロックの影響は死んじゃいないが、”あの娘”=”今の若い男や女”には届いていない。それを下津は自分の手で”踊らせよう”=“音楽を届ける”とする歌詞だ。
「あなたを見た時ミドリだった」というのは初めて忌野清志郎を目にした時は小さかったまたは未熟だったということか。ただ他の箇所でもミドリは使われており意味は判然としない。


3.よだれの唄

曲調としてはハイテンポなレゲエ調にサイケなロックを重ねたフィッシュマンズに近い形をとる。ギターは蛇のような軽快さで曲を徘徊する。下津の声は相変わらず粘りっ気がある。2nd『世界が見たい』にアレンジver.があるが聞き比べてみるのも面白い。
下津の書く歌詞には少なくないことだが、この曲の歌詞は全体に散逸感があり、一方向にまとめて書くことは難しい。
“君”が誰を指すのか、なんとも言えない。恋人とも父ともロックスターともとれそうだ。他者Xとする他ない。
「死んでね 笑われると殺しそうだ」
「笑われてる」ことを気にする過剰な自意識。”放蕩息子たち”のための曲であるのは間違いない。
“よだれ”といえば赤子だ。赤子とはつまり未熟者。未熟者のことを書いた唄。(ある種の未熟者としての放蕩息子。)やや強引だと思われるかもしれないが、大枠は外れない見方であると考える。


4.友人の唄

アルバム内で唯一のアコギ弾き語り曲。曲調はゆったりとしており、歌詞も内省的だ。友人である”あなた”への想いが綴られる。前回に引き続きここでも緑の汽車やラジオ、家族のことが登場する。何よりもこの曲で目を引くのはやはりフィッシュマンズの『KING MASTER GEORGE』収録の「頼りない天使」からの引用だ。

なんて不思議な話だろう
こんな世界のまん中で
僕が頼りだなんてね
「頼りない天使」
この曲の中では「本当に不思議だね 僕が頼りだなんて」とそのままではないが引用となっている。
余談だが最後の甲高く引きつるような発声に似たことをTempalayの小原綾斗も「EDEN」とかの曲でやっている。こればっかりは偶然だと思うが個人的にはすごく似ていると思うので聞いてみて欲しい。 


5.あんたは、変わらない

前曲とはガラッと変わって”あんた”=人類に刃を向ける。「人類は同じ過ちを繰り返す」と歌う。正直言ってどこかで聞いたことあるフレーズでサブカルバンドあるあるのような感じは拭えない。ただ単に刃を向けたり嘲笑して終わりというよりは諸行無常的な諦観を露わにさせて締めくくるというのが下津らしい特徴だ。このことはのちのアルバムでより顕著となる。


6.ムカデは死んでも毒を吐く

「本当の血潮、痛みを見せてやる」と歌い、自分をムカデに例えて、「くたばったとしてもお前らに毒を吐いてやる」と歌う。またしてもギラギラとしたナイフを振り回すような攻撃的で挑発的な曲だ。この歌詞と下津の風貌からだと単なるヤンキーだとゲンナリする人もいるかもしれないが、それは誤解であるだろう。
「土壇場にかけたその言葉が一番強いのを知ってた」
「いつもそれを大人は認めない だから僕は人とうまく話せない」
文章としては崩れているが、言わんとすることは伝わる。そこに立つ青年は決して無敵のヤンキーではない。「ムカデは死んでも毒を吐く」と言い聞かせることで自らを奮い立たせる唄歌いだ。さらに<大人>と<ぼく>の対立という構図に甲本ヒロトを想起する人も少なくないだろう。ここには彼の影を見ることもできる。下津は決して<大人>の立場に与することなく<ぼく>やBoyであり続ける。それは成熟を拒むキッズやガキとどう異なるのか。この問いはこれ以降のアルバムでの一つの重要なテーマになりそうだ。


7.テカテカ 

この曲は本来アルバムに収録されていたがなんらかの事情によりサブスク解禁のタイミングでApple MusicやSpotifyでは無かったことにされている幻の曲。ちなみにAmazon Musicでは聞くことができる。ほとんどの人が聞く機会を持たないと思うので今回は触れないことにする。

 



次回は1st full『SEBULBA』だ。『SEBULBA』も実はAmazon Musicくらいでしか聞けない。とても惜しい。

批判・訂正があればコメントまたはTwitter(@pooraiden1054)まで

おやすみなさい。歌唄い [2009] 踊ってばかりの国 (踊ってばかりの国 全アルバムレビュー①)

 

f:id:raiden2357:20221115233854j:image

何回かに分けて踊ってばかりの国のアルバムのことについて書きたいと思う。踊ってばかりの国は大好きなバンドの一つだ。アルバムもたくさんあるし、活動期間も長い。だがネットを探してもなかなかアルバムレビューなるものが見つからない。ということで知識も文章力も拙いながら自分で書いてみることにした。ただの単なるレビュー以上のものを目指して書いている。基本はアルバム全体と曲ごとという構成の予定。サウンドより歌詞の話がメインとなる。早速本題に移る。

 

おやすみなさい。歌唄い [2009] 踊ってばかりの国

 

  f:id:raiden2357:20221115232618j:image

 

2009年リリースの1stミニアルバム。彼らがまだ神戸に本拠地を置くときのもの。下津の声は荒削りで毒々しさがある。全体としてはインディーズらしい音のチープさがあるが、演奏は決して軽くなく、曲調が不安定でサイケデリック感が強い。のちの曲と比べても多くの曲はゆったりとしたリズムテンポなのも印象的。またこの後に見受けられるようなアルバムとしてのテーマはないように思われる。

個人的には滝口の揺れるようなギターの音は好きだ。初期の踊ってばかりの国サウンド面はほとんど彼が担っていた。あくまで林はサポート的位置だった。


1.「僕はラジオ

これは下津が高校生の頃に一人で作ったもの。同名の米国映画から名前をとったものだろうか。今っぽくない、流行性から距離を取る歌い手としての自分自身をラジオに見立てる。かつては「ベイエリアからリヴァプールから」「君が知らないメロディー、聞いたことないヒット曲」を届けてくれたラジオ。今や古臭く聞き手にもすぐに飽きられてしまうといった悲観さをみせるも、一方で自分のロックスタイルを貫こうとする踊ってばかりの国の所信表明でもあるような一曲。

余談だが、「電波伝って音に変えるんだぜ」は「原発だって音楽に変えるんだぜ」と歌ってるようにしか聞こえる、というかそう歌っていると思っている。だとしたらそれは忌野清志郎のことを歌っているとしか考えられない。インタビュー上ではそれを否定していたが。さらに余談ではあるが、90年代の日本のヒップホップ界で名を馳せたSHAKKAZOMBIE「虹」におけるOSUMIの「連発(→原発)のトラブルに首突っ込もう」というリリックに近いものを感じる。

 

2.「死ぬな!」

見た目的に「死ね!」という感じの下津だが、そうした印象をもつ私たちへのアンチテーゼ的なものか。「母と子に血縁がない」「人を殺した」など救いのないひとたちへ「誰も死ぬな!」と歌う。「みすぼらしいのは僕だけ」なんだからと。下津はこの後も一貫して「生への肯定」を歌う。自らが聴き手の悲しみや苦しみを引き受けると歌うことも同様。インタビューでは幼い頃に死に近づく経験をしたことが「生への肯定」につながっていると話していた。

 

3.「写陰邪陰」

ボーカルにはラジオ風のエコーがかかり歌詞も混沌とした印象を受ける。真っ赤なりんご、トリケラトプス。その後に立ち現れるのが「遠くの国で死んだ友達 頭だけ晒されて死んだ」、「丘の向こうはきっと明るい」。<遠くの国=紛争の地>、<死んだ友達=戦死した同世代の誰か> を想い歌う。こうした素朴平和主義・反戦を歌うことも踊ってばかりの国(下津)の特徴。のちのアルバムでもまた触れるが、こうしたところでも彼のカリフォルニアンヒッピーからの影響は見てとれる。彼自身、サイケデリックという音だけの影響ではなく精神性そのものにも多大な影響を受けていると公言しているのだ。

 

4.「君が嫌い」

これはバンドマンあるあるというかありきたりな恋色ソングと切り捨てて良いはず。収入などが安定しない男と付き合うと君(恋人)を幸せにすることはできない。だから僕(下津)は綺麗な君(恋人)を嫌いと言って離れていってもらうしかない、わかってくれ的な。
どうでもいいが下津って<僕>という感じではないと思う<俺>。<僕>はどちらかというと小山田壮平とか。 

 

5.「意地悪」

一方角の意味を持たずにグネグネと曲がりながら「意地悪(欲張り)はおやめなさい」という独立したメッセージを取り囲むという構図。歌い方にも特に癖があり、耳に残りやすい。意味不明だし、おそらく大した意味は持っていないその周辺のサイケデリアな歌詞は結果として不思議な魅力を持っている。

 

6.「緑の汽車」

ちょうど下津たちが神戸から東京に移ってくる前の頃なのでそういうこと。つまり緑の汽車で東京へ行ってしまうが決して君を忘れないから泣かないでくれということだろう。「君が嫌い」と同系統。ただ「緑」というのは少し気になる。下津が緑でなにかを暗示しているのか。といのものちに下津は「緑の箱」というワードを歌詞に書いたり、子供の名前に「みどり」と付けたりしている。緑=自然=生命のイメージが連想されるが、もう少し個人的なイメージが重ねられている気がする。

 

7.「四色のパノラマ」

この曲の歌詞について1st「SEBULBA」収録の「悪魔の子供」と類似している。「黒い子供」「白い子供」「青い子供」「赤い子供」(=四色のパノラマ)というなんらかの比喩。単に色んな子供がいるよねということではない。「二人で生きよう」というのは夫婦二人でこの「子」育てを頑張っていこうということか。この曲のみだと判然としない。

 

8.「毛が生えて騒いでいる」

いささか不気味な曲名に「あん、ああん…」という小さく弱まった喘ぐような声。そこから歌いだされ、紡がれるのは下津の悲しい記憶。この曲では明らかに父からの虐待を歌っている。「父さんは気違いか、着ぐるみ着た(=アルコールで人が変わったようになる)」「父さんは臭いから蓋をしよう(=アルコール臭い)」「父さんの暴力は僕の脅威さ」「父さんの頭には僕はいない」「母さんは痛いから僕にすがってる」。アルコール中毒で臭い父は僕(下津)と母に暴力を振るうというのだ。驚くことにジャケットのぼんやりとしたゆるふわ系の着ぐるみの絵は自分に虐待を行う父親だったのだ。さらに「着ぐるみ」は人が変わることの暗喩のみならず「気狂い」ともかけている。そんな中、下津はゴミ箱の中に1人で叫んで(歌って)いたのだ。のちにこの状況をバケツの中とも表現している。「毛が生える」というのはこうした状況下で否応なしに大人として成長していくさまを歌っていると考えるのが妥当そうだ。

ただインタビューでは父から音楽やサーフィンなど多くのカルチャーを教えてもらっていたと話す。さらに近年も下津は父をSNSにあげたりしており、現在の関係は良好なのだろう。4th「Songs」収録の「Hero」もおそらく父のことを歌っている。「酒に溺れた方が君は楽だったんだろう」と、それでも「僕のヒーローだったよ」と歌っている。ちなみに下津が身近な人のことを歌うことは多い。またまた余談だが「もうちょっと…」という歌い方がGEZANの「待夢」をカバーしたときのそれに似ているので聞いてみてほしい。



次回は2ndミニ「グッバイ、ガールフレンド」

批判・訂正があればコメントまたはTwitter(@pooraiden1054)まで